大崎上島-教育の島-瀬戸内の離島での学び・教科書では学べない大崎上島学-学校では教えてくれない大崎上島学-広島県豊田郡大崎上島町

歴史ルポ『住吉祭・櫂伝馬競漕』本家本元・東野の『櫂伝馬』を学ぶ。

 毎年8月に入ると、何処(どこ)からともなく太鼓(たいこ)の音が聞こえてくる。海辺を見渡すと、小船の艫(とも)の部分で乗組み員の一人が太鼓を打ち鳴らし、そのリズムに合わせ十数名の漕こぎ手が独特の掛け声で必死に櫂かいをこいでいる姿が目に留とまる。

ここ大崎上島町東野地区では、この時期ごく当たり前のように見かける風物詩(ふうぶつし)である。これが知る人ぞ知る毎年八月に住吉祭りで繰り広げられる熱い戦い、“櫂伝馬競漕(かいでんまきょうそう)”である。

今も民俗文化財として継承されるこの行事について、地元保存会のご協力を得てあらためて歴史を紐解(ひもと)いた。

 そもそも「櫂伝馬」とは、住吉祭りの際、当時動力が無い、神輿(みこし)を御座(ぎょざ)する御本船(ごほんせん)御座船(ござぶね)および、その御供船(おともせん)を曳ひいて行くために使用された手漕(てこ)ぎ船で、櫂伝馬競漕は御本船停船時、任意に行われたため、住吉祭りの主たる行事ではなかった。(注、神輿=祭のとき神霊を移動のため一時的に鎮めたもの、御座=神輿の座すわる席)

 遡(さかのぼ)る事、文政(ぶんせい)七年(1824年)に、大阪の住吉大神を勧請(かんじょう)し、現、東野・古江地区の海岸に社地を築き社殿を普請(ふしん)、文政十年(1827年)に完成。以降、毎年旧暦6月29日に祭礼(さいれい)が行われたことが始まりである。(注、勧請=神の分魂を移し、祀(まつ)ること、普請=建築)

 この祭りは其の後、櫂伝馬祭りとして西の宮島さん(現、宮島―厳島神社)、東の三島さん(現、大三島―大山祇神社)とともに名高く、遠近の参拝者が押し寄せ、海上は参拝者の船で満ち溢あふれ、陸上には地方の興行師(こうぎょうし)が露店(ろてん)を張り、賑(にぎわ)いを極きわめたと云う。

 当時の祭りは、住吉神社(古江区)で祭典を終え、神輿(みこし)は陸路、各地区を経て夕刻、矢弓港にある御旅所(おたびしょ)の厳島神社・延享(えんきょう)二年-1745年勧請(かんじょう)に向かい、海上では、還御(かんぎょ)の際の御本船(御座船)および御供船が陸上の神幸(しんこう)行列につれて櫂伝馬で曳ひかれつつ、矢弓港に辿りたどり着いた。この間に櫂伝馬は各地区沖で、勇壮(ゆうそう)なる櫂伝馬競漕を行った。注、御旅所(おたびじょ)=神輿(みこし)を仮に鎮座する所、還御(かんぎょ)=元の居所へ帰ること、神幸行列=神輿を他所へ移す行列)

 夕やみ迫(せま)る頃、御旅所(おたびじょ)の厳島神社で祭典を終えた神輿みこしは矢弓沖で御本船に御座、御供船を従えて櫂伝馬に曳ひかれて住吉神社に還御(かんぎょ)した。還御の際、海岸では麦わらを積み上げ御灯明(ごとうみょう)として焼き、その炎は天を焦こがし御本船および御供船の紅提灯(あかちょうちん)とともに不夜城(ふやじょう)の観(かん)を呈(てい)し、海岸すれすれに漕がれる御本船および御供船より奏そうする樂(がく)の音(ね)、囃(はやし)は、古今(ここんゆか)しく海に流れつつ還御(かんぎょ)したとある。 

 当時の賑わいがひしひしと伝わり、いかに盛大であったかが窺(うかが)える。

尚、住吉神社(古江区)は明治43年(1910年)に神社、合祀(ごうし)の令により廃社(はいしゃ)となり、同古江地区の古社八幡神宮(こしゃはちまんじんぐう)に合祀(ごうし)された。かくも盛大な祭典も神社の廃社に伴い衰退(すいたい)したが、現在は住吉祭り・櫂伝馬競漕として引ひき継がれている。因ちなみに祭りの御本船(御座船)、御供船は動力船に代わったが現在も祭りの象徴(しょうちょう)として古式(こしき)に倣(なら)っている。

 大正に入り第一次大戦当時、造船業界は好景気が続き大型の櫂伝馬船が多数出現したため、その後の話し合いによって船の規格(きかく)が統一され、現状に及んでいる。注、合祀=別の神社の祭神(さいじん)を一社に合せて祀(まつ)ること。

 船の大きさは全長十一メートル、幅は制限なく概(おおむね)一メートル六〇程度が多い。材質はベンコウ杉、ヒノキ、サクラの木を組合せ、重量、耐久性、重心を考慮(こうりょ)した。幅は揺れやスピードを考慮して伝馬船ごとに特徴を出している。因に建造費は現在一艘400万円位掛かる。櫂伝馬の乗組員は総員18名で船頭(せんどう)、太鼓(たいこ)打ち、司令塔役の剣櫂振(けんがいふり)小学生高学年、水先案内人役の台振(だいふり)小学生低学年-各1名、櫂子(かこ)漕手(こぎて)14名である。(図参照)

 また独特な掛け声と太鼓のリズムに合わせ櫂を漕ぐのも大きな特徴でもある。

報恩ホウオン 栄エイ弥ヤ 栄エイ弥栄ヤエイ 宝来ホウラ 栄エ 弥ヤ歳サ の 歳々ササ

 昭和の敗戦で意気消沈(いきしょうちん)した時代に、郷土を奮(ふる)い立たせる目的で祭りが再開されて久しく、多いときは旧東野町内の各地区沖で競漕が行われていたが、徐々に参加地区が減り近年は、開催日を8月13日とし、東野・白水区を中心に開催している。

祭りの日、観客の声援に応え、負けてなるものかと必死に櫂を漕ぐ櫂子たち、リズムをとって激しく打ち鳴らす太鼓、みんなを鼓舞(こぶ)し船を巧(たくみ)に操(あやつ)る船頭、その雄姿(ゆうし)や醍醐味(だいごみ)は櫂伝馬競漕ならではの光景として今も受け継がれている。

大崎上島町-木江出身・作家(小説家)・穂高健一先生

エッセイ・題名「魚屋の健ちゃん」2018年10月・執筆

 私の近著は『小説3.11海は憎まず』、幕末歴小説『二十歳の炎』、山岳歴史小説『燃える山脈』である。穂高健一といっても、故郷の大崎上島ではかぎりなく無名である。

 小学生のころ蓄膿症を患い、青い膿の鼻を垂らしていた。「一貫目の魚屋の健ちゃん」、母親が営む「魚西旅館」といえば、あの子か、と思い起こすひともいるだろう。

私は魚釣りが大嫌いだ。釣りあげた瞬間、魚の口が釣針に刺さり、苦悶で暴れている。そんな死を前にした、痛々しい姿が哀れで、いたたまれないからだ。

 父が経営する「魚屋」の店頭には3ヵ所、海水入りの水槽があった。小、中学校帰りの私は手伝いで、店頭に立つ。「この魚をちょうだい」と指されると、水槽で泳ぐ活魚をすくい取り、手カギをもって殺す。この殺生が大嫌だった。1日に数十匹も殺す。魚が実に哀れで、その後において、私の殺生のトラウマになった。

店舗の脇には、鱗が付着したトロ箱を積み重ねている。空箱には銀ハエがたかり、不快にも卵を産みつける。そのうえ悪臭がする。これも嫌だった。昭和30年代は親の家業を継ぐのが当たり前だった。

「こんな魚屋人生はいやだな。なぜ、魚屋なんだ」

父親はかつて木江造船工業高校と国民学校(小学校)の教師だった。終戦後のある時期から、魚屋と肉屋をはじめた。その実、母親が金にどん欲で、食べ物商売は儲かると見込んで、父親に転職を強いたのだ。母親は『魚西旅館』の経営をはじめた。

理系の父は、商売人ではなかった。冷凍機や海水を揚げるポンプが壊れると、嬉々として修理していた。店を放って機械ばかりいじって、と母親は苦言ばかり。それが親の夫婦喧嘩のタネだった。 

木江港は「おちょろ舟」で名高く、瀬戸内随一の遊郭街で活気に満ちていた。木造2、3階建ての遊郭が道路の両側に建ちならぶ。夕刻になると、手漕ぎの屋形のおちょろ舟が、港内の大小の貨物船に接舷し、「姐さん」と呼ばれる女郎を船室に送りこむ。彼女たちは一晩の性を売っていた。

 私が中学2年生の、昭和33年に売春防止法の完全実施で、港の遊郭の灯が一気に消えた。入港する貨物船はほとんどなく、造船業も斜陽化した。

中学校への通学路は、島々のかなたから昇る朝日が絶景だった。朝凪の鏡面のような海に、赤い太陽柱が輝いてきらめく。片や、活気を失った木江港が妙に暗くもの悲しかった。

「作家が木江港にきて小説を書いてくれないかな、志賀直哉の『城崎にて』のように。木江が有名になれば……」

そんな想いを馳せていたものだ。まさか、私自身が作家になるとは、当時は想像すらもできなかった。

『自家で勉強するな。学校で先生の話をしっかり聞いて、試験を受けた結果、それが身についた力だ』

元教員の父親は、家で教科書や参考書を開く、と叱責する。他方で、母親が通信簿をみたがると、子どもが気にするから、ゼッタイ見るな、とこれまた怒っていた。小・中学の参観日に、親がきた記憶は一度もないし、通信簿の確認欄の捺印は、私がつねに勝手に捺す。ただ、怖い先生の宿題は、父親が寝入ったころ、こっそりノートを取りだしたものだ。

片や、私は毎日、船員相手の貸本屋の棚にならぶ大衆小説、読物小説、時代小説、社会派小説を片っ端から借りてきて、読み漁った。父は私の読書にたいして一言もふれなかった。

魚屋の息子だから、竹原高校の商業科へ進学と決め込んでいた。内申書でうかる範囲にいたし、受験勉強などまったくしていない。中学3年の終わりころ、母親が突如として、

「健次、島の高校の普通科を受けんさい。きょう進路指導の先生に訊きにいったら、普通科は進学校でレベルが高いし、むずかしい。健次の内申書はギリギリ、場合によったら、合格するかもしれん、と言ってたから」

「落ちたら、恰好わるい」

「そのときは家業を継げばええ。竹原港まで定期船で通って、紫雲丸事件みたいなことが起きると、怖いけんの」

昭和30年5月11日に濃霧の高松沖で、修学旅行ちゅうの木江南小学校(沖浦・明石)の修学旅行生が乗った国鉄連絡船・紫雲丸が、衝突・沈没したのだ。同校6年生たち97人中22人、引率教員3人が死亡した。

私たち木江小学校(野賀~岩白)が1週間後、同コースで出発する予定だったが、秋まで延期になった。そんな大惨事から、母親は船通学を怖がっていた。

 運よくしまの大崎高校普通科に合格した私は、バレーの部活と、学校帰りの魚屋の手伝い、そして夜は本ばかり読んでいた。校内に張り出される成績は常にビリだった。将来は魚屋ならば、成績などまったく関係ないとおもっていた。

「木江港は寂れてしまったしの、将来は暗い。大学に行ってもいいぞ。おまえは魚屋と旅館を継がなくてもええ」

 高校2年生の私は、親のことばに飛びついた。魚を殺さない職業に就けるならば、と大学受験勉強をはじめた。

もし、私が魚屋の跡継ぎだったら、作家人生はなかっただろう。